2012/02/20(月) 奏法と流派(2)
さて、いろんな流派があるけれども、たぶんどんな道を行くにしても共通していることは、ひとつは『過ぎたるは及ばざるが如し』っていうことだと思う。やればやるほどいいなんてことは多分なくて、ちょうどいいところってのがある。だから、『こうしよう』、『こう吹こう』って考えすぎない方がいいと思うし、頭で考えずにできれば、やっぱりそれがいちばんいいように思う。
それから、ひとつひとつの現象について、結果としてそうなっているのか、それとも意識してそうするのか、この大きな違いを知ることが大切なように思う。ある人が『結果として』そうなっていることを、別の人が『意識して』そうしようとすれば、たどりつく結果はきっと全然違うものになるだろう。
さらに、どうしてそうなるのか、なにがそうさせているのか、その因果関係を見つける、それに気づくことが大事だったりもすると思う。でももしかしたら究極には、すべてのことがらは何らかの結果であり、作為的にすべきことは多分ほんとうは1つもないんだと思う。作為的…、頭の中が間違っていたり、頭が支配しようとしすぎていたり…。そういうことは意外にあるものだ。ヘタな考え休むに似たり。。
そして思うのは、イメージが大事だということ。たとえば完璧な理論書(そんなものがもし仮にあったとしてね)と、完璧な楽器(そんなものが…以下同)を与えられて無人島(音楽的な無人島ね)に放置されたとしたら、その人はスーパープレイヤーになれるだろうか…(すごい話やね^^;)。どんなに練習しても、きっとムリだと思う。で、そこに足りないものが結局、きっといちばん大切なものなんじゃないかな。。
って思い知ってわかっているつもりなんだけれども、なかなか現実にはうまくいかず、轍や呪縛に日々振り回されまくっているわけだけれどもね…(^^;